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若葉から紅葉まで

プロフィール

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若葉から紅葉まで
ブログ紹介
2007年、免許取得後28年目にペーパードライバー脱出を図りました。
ハラハラドキドキの日々を記録に残すうち、書くことの効用を知り、
・・・今や、三人の高齢者とのバトル記録ブログと化してしまいました。
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飾る言葉

2009/06/30 22:19
自分を肯定し、良く見せる術はいつのまにか身につけてしまうものだ。

「50歳すぎて運転を覚えたので・・・」と言うと、皆「ほう〜」と関心を示してくれる。
このフレーズが私の努力を認めてもらえる最も端的な言葉だと知ってから、
介護のしんどさと自分の努力を主張したい時に使うようになってしまった。

自分のいやらしさを感じるようになったので、しばらくこのフレーズは禁句にしよう。


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カラオケ復活

2009/06/26 21:08
実家からの帰路、携帯に母からの着信音(母だけ音を区別している)。
「あのね、今からカラオケに行ってくるね


自ら電動車いすを操ってカラオケに出かける、数か月ぶりの出来事

私の疲れも吹っ飛んで、運転しながら顔がほころぶ


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配食サービス

2009/06/24 13:28
記憶の脆さは相変わらずだけど、気分はすっかり落着きを取り戻し、相対して話していると認知症を忘れさせるほどに回復、いやむしろ好転しているかのような錯覚を覚えるようになった母。

今日は配食サービス初日、どんな具合だったか尋ねると多種類のおかずとほどよいご飯の量で残すことなく完食できたとのこと。
今朝の電話では、昨日配食手順の打ち合わせに来た介護施設の職員さんからの説明もきちんと覚えていて、その話を聞きながら、私の心の中でその記憶力に感嘆符

落着きが戻ってくると、やはり以前から感じていたように、老親二人を同時に相手にするよりも、一対一で向き合う方がずっと楽だ。
母にとっても、いがみあう相手がいなくなり、寂しさは募るが今までにない心の平穏が訪れているのではあるまいか。

しばらく電動車いすでの外出をしていないので、今日は近くのスーパーへ夕食の買い出しに行ってみてはどうかと勧めて電話を置いた。


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母の様子

2009/06/18 10:41
めまぐるしい日々が過ぎ、あまりにたくさんの出来事があって、書きとめようもなくなった。

昨日初めて、母を1日中ひとりにしてみた。
私の体力・気力の限界が来たから。
電話のやりとりは頻繁に繰り返したが、結局母は一歩も外に出ることなく、食事は冷蔵庫の残り物で済ませたようだ。
父の入院以来、毎日私が側にいたことで母は電動車いすでの自力外出をしなくなってしまった。
いや、それ以前から父の体力の衰えと母の股関節の痛みの悪化と認知力の衰えが同時進行で、4月以降はどこへ行くのも私が車いすで連れて行くようになってしまっていた。



入院・通夜・葬儀と普段と違う大勢の人が出入りして、母の識別力は混乱を極めた。
独居という選択肢はあり得ないと思われたので、母の落ち着き先が決まるまで、私の家に連れ帰ろうと思っていた。夫も最初は同意していた。しかし通夜の後、『あの状態のお母さんを家に連れて帰ることはできない』と拒否された。
葬儀の日の朝、急遽ケアマネさんと連絡を取り、とりあえず1週間のショートステイを申し込む。

葬儀が終わり、父を骨壷に収め、葬儀場に戻って初七日法要の間中あふれてくる涙は父への思慕でなく、母と私の行く末を慮ってだった。

突然出てきたショートステイの話に母が応じようはずもなく、結局はキャンセル。
翌土曜日は弟家族が実家に滞在し、日曜日は兄が立ち寄り、皆が仕事に戻った月曜日からは、母をひとりにするかどうかは私の頑張りにかかってきた。

葬儀の話、親族の話、香典の話、いつも気がかりで同じところに留まる母の話に根気よく付き合いながら、まずはデイサービスを再開することから話を進め、火・木のデイサービスが復活した後は土曜日の追加までこぎつけ、今は配食サービスまで話が進んでいる。明日は市役所の担当者と民生委員さんの面接訪問がある予定。事務的には進んでいても母的にはすぐ元に戻ってしまうので明日の面接もぶち壊しになる可能性も残っている。


我が家から4〜5kmの近距離に新築の有料老人ホームが今月末オープンする。
最終的にはここに入居してもらえれば、私にも日常が戻ってくるのだが、遠い道のりであろうことを覚悟している。


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後悔

2009/06/10 16:30
【6月2日(火)-2】
今夜は9時までつきそい、帰りに荷物を取りに立ち寄ると言っていた兄達が9時半を回っても実家にこない。電話を入れると父の叫び声が聞こえてきた。あと1時間付き添ってから帰ると言う。
・・・私はシャワーを浴びてからタクシーで病院に交替に向かおうと思い10時すぎ再び電話を入れると、もう病院を出て実家へ向かっているというので到着を待った。
・・・ひとりで付き添う怖さと明日は早朝から病院に詰めるからという気持ちとで、病院には向かわなかった。

【6月3日(水)】
午前2時4分、携帯の呼び出し音が数回鳴る。
取ると切れてしまっていたので着信番号にかけ直すが、この番号は発信専用で受信できないとテープが流れる。
電話を切って次の呼び出しを待つ。
午前2時9分、血圧も心拍数も落ちて来ましたと病院から連絡入る。
母を連れて行くべきか?
母の認知度を信頼できなかった。服を着てお化粧をすると言われたら時間がかかりすぎる。病院で騒ぎはじめたら厄介だ。一刻も早く病院に到着したかった。
タクシーを待つ間、兄と兄嫁の携帯に電話をかけ続けるが一向に出ない。
しかたなく、固定電話にかけて同居している兄嫁の母に取り次ぎを依頼する。
弟にはどんな異変も知らせてほしいと言われていたので連絡する。

病室では静かに父が呼吸していた。呼びかけても反応がない。手がとても冷たい。
モニターからは危険領域の警告が出たり止んだりしていた。
母を呼ばねばならないと思った。
夫に依頼してみたが、夫も母の認知度を信頼してなかった。それに1時間以上かかる。
母に直接、電話を入れてみた。
真夜中にも係わらず、至極真っ当だった。
タクシーを自分で呼んですぐ病院に到着できた。
しかも、いつも使う小さなタクシー会社でなく、真夜中でも台数のある大きなタクシー会社を呼んでいた。そこまで的確に判断出来ていた。
しかし、間に合わなかった。

看護師さんが病室に入ってきて3時に心臓が停止しました。と言った。言われるまで終わったことが分からなかった。兄と弟に電話を入れた。そして母が到着した。医師が到着し死亡宣告したのが3時27分だった。心電計が動いたのでまた蘇ってくれると思った。しかし、蘇らなかった。



後悔が後から後から吹き出てくる。
なぜ、病院に泊らなかったのか。
なぜ、最初の電話で母を連れて来なかったのか。
なぜ、毎日もっと長時間ついていてあげなかったのか。
なぜ、もっと早くもっと良い環境を整えてやらなかったのか。
私がもっと頑張れば、父は限られた時間をもっと快適に過ごせた筈だった。

兄が到着し、葬儀屋に連絡し、父は葬儀屋の寝台車で裏口から病院を出た。
もう空が明るくなっていた。

6月4日(木)通夜
6月5日(金)葬式・初七日

折に触れ、父の最後の苦しかった数日の姿が脳裏を占拠する。
人には、長寿で直前まで自宅で普通に生活できたことが良かったと話す。
しかし、父の姿が焼きついた目からは涙があふれる。
天寿を全うしたと思うのにメソメソが止まらないのは、私が更年期だからかもしれないとも思う。





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転院

2009/06/06 22:52
【5月28日(木)】
母をデイサービスに行かせることができたので、父の病室で落ち着いて時間を過ごせた。
ナースセンターで昨夜の様子を聞くと、「よくしゃべって眠れてないが問題行動はなかった」

昼食介助をするがほとんど食べられない。
「ごはんも食べれんようになったあ〜」と嘆き、身体の力が抜けて行く様子がみてとれた。

夕刻出直すと、回診があったようで、
「県病院の先生が来て明日手術すると言ってくれた。」と混乱も混じるが数日前の元気さが戻っていた。しかし目一杯の気力は長くは続かない。

【5月29日(金)】
兄夫婦も来てくれて13:30救急車で県病院へ転院。
この1週間でみるみる体力が落ちてしまっていた。
黄疸もひどく麻酔をかけて手術をするレベルにはもうなかった。
看護体制のしっかりした病院システムに安心したのと、兄たちが来てくれたことでひとりで背負っていた緊張感がほぐれた。
到着後大量の大便があったとかで、夕食は久しぶりにごはんを数口食べ「ああ、うまかった。」という言葉がでた。お茶にはトロミアップが入れられ吸い飲みで飲ませたが、このお茶は味がおかしいというので、自販機で買ったペットボトルのお茶を飲ませると、「やっぱりお茶はこの味でないといかん」と元気が戻った。
看護師さんに便意を訴えるとここにしていいですよとおむつを指してそっけない。
「便所に連れて行ってくれ〜」と訴える。ここにしても良いんだってと言っても「そんなこと言わずに連れて行ってくれや〜」と泣くように訴える。かわいそうで見ていられない。

兄たちは主治医の話を聞くために病院に残り、私は夕刻母の待つ実家に戻る。
夕暮れ時、母との食事のためにサンドイッチを買って車を走らせながら、孤独とさみしさがこみ上げる。

転院して酸素マスクをつけられたこと、黄疸があり麻酔できないと言われたことを弟に報告する。
もう手術云々のレベルでなく、生死のレベルに入ったことを知る。

【5月30日(土)】
父の差し歯がぐらぐらなので抜いたほうが良いという看護師さんからの話で、往診の歯科を予約する。
弟夫婦が昼過ぎに帰省する予定だったので、母を実家に残し外から鍵をかけて私は姑宅へ向かい夫と合流する。

父が激しく痛みを訴えるようになったので個室に変わると弟から電話が入る。
・・・あまりに激しく訴えるので背中に手を入れてみたら・・・センサーのクリップが挟まっていた。
看護体制に安心していたけど、そういうこともあるのだ。

手術ができないので元の病院へ転院するようにと医師からの話があったことを聞く。
皆、元の病院には戻らせたくない。少しでもましな環境で最期を迎えたい。

私は一日休養をもらう。

【5月31日(日)】
午前中、病院で弟夫婦と合流。
「コーヒーくれや」弟が自販機のコーヒーを買ってストローで飲ませる。久々の食欲だった。
「タバコ」ここは病院だから禁煙なのよ、治ったらタバコ吸えるからね。
「治ったらどこいこか〜」
「トイレ」管をトイレにつないでくれてるからこのまま出していいよ。
「そうか」出た?
うなづく。

母と4人で昼食をともにして、弟たちは帰路へ。
午後は兄たちが病院へ詰めてくれ、親戚のお見舞いも受ける。
親戚もみな80代の高齢、父は気力を振り絞り大きな声で応対していたそうだ。

私は今日から実家に連泊体制。
下血があり尿とりパッドを買ってくるように看護師から指示があったと兄から聞く。
弟にメールを入れる。
下血がありながら転院はありえないと弟は言う。

【6月1日(月)】
日々悪化しているのが見て取れるので、果たして抜歯が可能かどうか朝もう一度病院に電話を入れる。
もう抜歯の段階ではないでしょうということで往診歯科はキャンセル。
父の歯科をキャンセルしたので午後に予定していた母の整形外科の受診つきそいを午前に変えて待合室で待っていると携帯が鳴り、父の差し歯がもうぐらぐらで今にも抜けそうなので至急往診歯科を依頼して欲しいと看護師から電話。が、そんな至急依頼には対応してもらえず、そんな電話のやりとりを歯科と病院とで繰り返している間に歯は自然に抜け落ちて喉につまる寸前で看護師さんが受け止めた。

整形受診を終え、母を自宅に置いて父の病院へ向かう。
下血は一時的なものだったらしい。

主治医は、今日なら転院できるが3日もたつと転院もできなくなるので、今日転院して欲しい、元の病院と連絡をつけると言って病室を出て行った。すぐ兄に電話。兄は仕事を打ち切ってこちらへ向かうから、転院は兄が到着するまで待つように。
主治医が戻り、今日は元の病院が受け入れできないということだった。
明日もう一度父の容態と受け入れ病院の状況で転院を試みると言う。

ここに置いてもらえないのか?
もう整形外科の段階ではない。内科の領域だ。
それなら内科に移してもらえないか?
この段階では処置の仕様がない、誰が診ても同じだから。
それなら先生に診て欲しい。家族としてはこれ以上動かしたくない。
・・・
家族に伝えるように、終わりがきていることを


苦しそうな父に何をしてあげることもできず、兄の到着をひたすら待つ。
夕刻到着した兄は葬祭場を回ってからきたという。転院に備え翌日の有休も取っていた。
12時まで兄が付き添うからお前はもう帰れということで私はその言葉に甘え実家に戻り母と夕食を取って休む。

【6月2日(火)】
兄夫婦が朝から来てくれた。喪服を実家に置いて、病院へ向かう。
私は母をデイサービスに送り出して自宅へ戻り、掃除・洗濯を済ませ喪服の準備をし、今夜は病院泊まり込みのつもりで再び実家へ戻り、デイサービスから帰った母を迎え再び病院へ向かう。

兄たちは病院と町を走りまわって実家近くの便利な場所にある葬祭場の会員契約も済ませていた。

夕刻、一旦病院へ行くが、父の様子が比較的落ち着いているので、今日は泊らなくても良いのではないかという兄の言葉に再び甘えた。翌日は夫も有休をとってくれていたので、翌日は兄たちに代わって私たちが病院に詰める予定だった。

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《骨折》

2009/05/27 20:20
【5月22日(金)】
骨転移によると思われる大腿骨骨折。

昼間いつもどおり週一の通院に連れて行くが、聴診器をあてるでもなく、腹部表面の腫瘍の具合をみるでもなく、「変わりないですか? 食事は摂れますか?」で診察終り。
体力は激しく落ちているが、この診察なら毎週連れてくる意味がないと感じる。

夕刻自宅に帰り、食事は外食で済ませ、家に入り一息つく間もなく電話。
実家のお隣さんから、
「今、救急車が来てお父さんが運ばれて行きます!!」
びっくりして母に電話すると
「玄関で倒れて動けないから救急車を呼んだ。」

様子がわからないがとにかく再び実家へ向かう。夜道だしもう運転も限界だったので夫に運転してもらう。
中間点あたりでやっと兄と連絡がつき、兄も病院に向かう。

到着してすぐ、「今お腹が空いたと言われてお食事されてます。」という看護師さんの意外な言葉にほっとする。
病室へ向かおうとすると、先に先生からお話がありますと呼び止められる。
目の前の画面の大きな骨が『イ』の字型に骨折した写真が目に入り、
「骨折ですか」と安堵して医師より先に言葉を発してしまった。
来る間中、もっと悪い状況ばかりを想像していた。
なあ〜んだ、骨折かあ・・・とそんな楽な気持になった。

が、転んで骨折したのでなく、骨折したことでバランスを崩し転んだらしい。
つまり癌の骨転移により骨が体重を支えきれず骨折したと思われる。
先月のPETCTの写真は内臓部中心で足は写ってなかった。
運ばれたかかりつけ病院は整形外科医は非常勤でたまたまその日の当直が整形外科医だった。
父の体力は通常の手術には耐えられないと思われる。
今はワイアーを通しておもりをつけて引っ張っている、したがって身動きできない状態。
歩くためでなく、今の牽引状態を解消するためには針金様のものでつなぐ手術という選択肢はあるが、
その可否は予後(余命)3か月くらいが判断の目安になる。

私のキャパシティではこのくらいしか聞き取れなかった。
残り少ない時間をベッドに固定され牽引されたままで過ごせというのはあまりに酷だ。

弟に電話報告する。
やはり歩けずともせめてベッドの上で寝返り打てるぐらい、車椅子に移乗できるくらいにはしてやりたい。
髄内釘というものを入れるのだそうだ。

【5月23日(土)】
甥の結婚式を翌日に控え、兄家族・弟家族、それぞれの地から旅立つ。私も結婚式用に荷造りした荷物を実家宿泊用に入れ替え実家に向かった。この日のために奮発して揃えたカラーフォーマル一式、日の目を見る日はあるだろうか。

入院手続きとか、入院に必要な物品とか、あちこち走りまわって集める。一通り揃えるのに3回も病院を出入りした。効率よくテキパキ動ける年齢でなくなったことに我ながらがっかりする。

午後、担当医の回診あり、家族としては、出来るだけ本人の自由度を確保してやりたいそのための手術を望む旨伝える。
髄内釘のことを言うと「そこまで大がかりな手術は・・・」という感じだった。
やはり私の聞き間違いでなく、担当医は針金様のもので繋ぐという選択肢だったようだ。

弟とも話し、夜、母へ父の本当の病状を伝える。母から『かわいそうに』という言葉がでる。

【5月24日(日)】
実家の燃えるゴミがたくさんたまっている。ゴミ収集日が月曜だったのでもう一泊することにした。
ごみ出しとかの決まりごとは父がすべて引き受けていたので、
ベッドの父に尋ねる。まだまだ頭はしっかりしている。

洗濯物を干していたら、母がクローゼットを開けて何やら探している。
一緒に探してあげるから何を探しているのかと尋ねると、緑の毛糸編みのスーツを泥棒に盗られた確認らしい。
怒りがこみあげてきたがぐっと抑えて洋服ダンスの緑のスーツを出して見せる。

午後になり、母もだんだんしっかりしてきたので、父の病院へ一緒に連れて行く。
口をゆすいだり入れ歯の洗浄をしたり私がこまごま動く間、母はひたすら父によけいな注意を与えている。
父に聞こえていないのが幸い。

【5月25日(月)】
早起きして、ごみ出し。ひとつは重い生ゴミ。もうひとつは軽い軟性プラスチックごみ。
左右バランスの取れない足で重さの違う大きなゴミ袋を二つ抱えてひょこひょこ歩いていたら、
おもいっきり転んでしまった。ジーンズは破れなかったが、膝はすりむけて血が滲んだ。

土日を挟んだので進展のなかった父の治療方針について夕刻病院へ問い合わせてみる。
県病院が手術を引き受けてくれたと報告あり。
うれしい、道が開けた。

私の睡眠不足は頂点に達し疲れ切ってしまった。
母をひとり実家に残すのは不安だがしかたない。
くれぐれも戸締りを頼み明日また来るからと自宅へ戻り自分のベッドで眠る。

【5月26日(火)】
自宅で掃除・洗濯・クリーニング店・買い物、いつものぐうたらペースの私なら二日くらいかけてすることを半日で仕上げてヘトヘト。母からはまだかまだかと催促の電話がひっきりなしにかかってくる。

このところいつも先を急いでいるので車の運転がすっかり変わってしまった。
のろまな車が前を走っているとイライラする。
頭の中はいつもいろんなことがぐるぐる渦巻いている。
アブナイとわかっているけど、平常心に戻れない。

母と簡単に昼食を済ませ、母を車椅子に乗せて父の病院へ。
再び私がこまごまと父の世話をする間、母は車椅子の上からひっきりなしに口出し。

帰ってきてすぐに、母と一緒に行くと私が余計に疲れるのがわかるかと聞いてみると、わかると言ってくれた。
では次から留守番していてくれるかときくとそうすると答えてくれた。
・・・しかしこの約束はすぐ忘れさられてしまう。

父のことを兄に知らせなければ、弟は知っているだろうか。
金曜日に兄がかけつけたことも、弟と電話で話したことも忘れてしまった母は、
○○へ知らせなくていいのかと何度も繰り返す。

夜は睡眠剤とアレルギーの薬のダブル効果で眠るしかない。

【5月27日(水)】
父の様子がげっそりしていた。
昨夜は牽引を自分ではずし、ベッドに座っていたとかで、ベッドにセンサーをつけたと報告があった。
父は、怒りとともに病院・看護師への不満を話したがつじつまのあわない話が入り混じる。
・人をバカにしている
・ここは通路だ(二人部屋の廊下側で廊下の扉はいつも大きくあけっぱなしなので)
・お茶が配られてから食事まで1時間もかかる
・食事の時間が2時間も3時間も遅れる
・看護婦がとろくさい
・部屋が暗い
・昼夜の時間の感覚がおかしい
・1センチあまりの腫瘍が胸や腹にぼこぼこでている

食事の時間が2・3時間遅れるなどありえないし、食事がでたところであまり食べられてないようだし、
導尿カテーテルも昨日までと違って何もたまってないし、
尿毒が頭にまわっているのではないかと不安一杯のまま帰る。

母は、
父さんはどうして入院しているのか?
昨日から入院しているのか?
病院の食事はたべられているのか?
昨日で懲りたので今日は母を連れずひとりであちこち動いたが出先出先にじゃんじゃん電話が入っていた。


夕刻、母から「父がいない」と電話が入る。入院していることを伝えると思いだせた。
キャッシュカードも最近暗証番号を変えたことを忘れて、使えなくなってしまった。
私が自宅まで運転している1時間余の時間の中でもいろいろ動いたようだ。

明日行くから戸締りだけはしっかりするように、心配を始めたらきりがない。運を天に任せるしかない。

父の体力が手術まで持たないような気がして、運転しながら涙があふれて困った。


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